筆者(ももやん)の経歴

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ももやん(筆者)の経歴を子供の頃より紹介したいと思います。多分、読んでも面白くもなんともないかもしれませんが・・・。少しでも「ももやん」を身近に感じてもらえたら嬉しいです。

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ももやんの経歴

小学生~今に至るまでどのようなに過ごし、その時代に何を感じてきたかを少しでも知ってもらえたらと思います。

@小学生時代

小学1年生の時にファミリーコンピューターが発売される。発売当初は四角ボタンですたね。筆者は小学5年生でファミコンを買ってもらえました。この頃よりコンピューターに興味を持ち出す。シャープが提供していた「X68000」や富士通の「FM-TOWNS」に憧れを抱いていた。勿論、NECの「PC8800」とか。毎週日曜日の朝にパソコン番組が放送されていて良く観ていた記憶がある。その一方で少年野球や書道、釣りにも励み色々なことに興味を持っていた時代だ。東京生まれで小学5年生の時に千葉県へ引っ越し。

@中学生時代

はっきり言って暗黒時代だ。部活はバスケ部。顧問は担任でもあった。毎日走らされ、フリースローを外すと殴る顧問。夏休みも9割は部活があり、毎日3時間練習。そのうち半分は体力作り。フリースローが入らないと休憩が貰えず水分補給をさせてもらえない。はっきり言って、今の時代であればニュース沙汰でその顧問は懲戒免職だろう。(数年前に同窓会が初めて行われ、その顧問と再開。「当時は若く無茶をしてました。」と発言するも当時の謝罪はまったくなし。どっかの校長になり定年退職を迎えたばかりでした。)

こんな時代でしたが世の中のコンピューターは進化し16ビット機が高級機として販売され始めた。「PC98シリーズ」「PC88シリーズ」は人気商品でした。そんな中、悪い事ばかりではありません。筆者は父親に富士通の「FM-77-AV40ーEX」を親に購入してもらう。このマシンは8ビット機でハードディスクというものはありませんでした。全てフロッピーディスクで動作するような仕様でした。インターネットもなくパソコン通信というものでした。しかし、高価な買い物をして貰いましたが、何をするにもお金が掛かるので、Basic言語を少しばかり本を読みながら勉強してました。この頃は将来は専門学校に行き情報処理の勉強をしたいと思っていました。この時のことが社会人になってから少なからず役に立っているのかな?そう思わないと父親に申し訳ない。

@高校生時代

高校受験に失敗し第三希望の中高一貫の男子校へ。一応は進学校でしたが、第一希望で入学してる人はいなく、やる気のない生徒の集まりでした。勿論、女子がいないので滅茶苦茶な行動が多い人がたくさんいましたね。暇があればカラオケボックス、そしてゲームセンター。夏になれば海に行き。冬になればスキーにも。ま、今思えば良い思い出です。そんな学校だったので、成績はとても優秀な成績でした(常に10番以内で3年間の平均評価が4.5/5でした(ちょっと自慢)。しかし、この頃はコンピューターの事には興味が無くなっていた時代です。将来何をしたいかもよくわからない。ある意味、暗黒な時代。そんな中で大学受験を目指した訳ですが、将来の目的(漠然と理系とは決まっていたが)が無いので、何故か物理学なるものを大学で勉強しようと考えるようになる。理由は世の中の全ての物の理論が学べると思ったのだろう。しかし、世の中は甘くない。筆者の時代は受験戦争真っ只中で、一番浪人生が多い時代だ。現役で大学進学することが普通じゃない時代。案の定、浪人決定。しかし、運が良く高校の成績が良かったので大手予備校の特待生(1年間の授業料無料)として予備校へ入学決定。

@予備校(浪人)時代

朝の通勤電車ラッシュ時から予備校へ通い授業を受ける。授業後は自主勉室でず~っと勉強。勿論、電車内では常に暗記するものをず~っと暗記。特に英単語は「ターゲット1800」なるものがボロボロになる程、読み込みした。この時代は遊ぶことは全くせず、ひたすら勉強です。筆者の場合は家では勉強しませんでした。ず~っと予備校で勉強。中学・高校時代の知り合いも同じ予備校に通ってましたが、別行動してましたね。たまに一緒に昼食を食べる位なもので。1年間本当に精神的にきつかったです。そして受験結果ですが失敗です。第一希望には入学できませんでした。またもや高校受験と同じく第三希望の中堅私立大学へ決定。しかし自分で決定したのにも関わらず、国公立の大学受験が1つ残ってました。センター試験でボーダーラインより100点も低かったので受けるつもりではなかったのですが、一応特待生として予備校に通ったので2次試験を受けてみたら何故か合格。結局、入学金等を収めてしまっていた後ということと、自宅から通うのが微妙にきついところだったので国公立に行くことはありませんでした。ま、中学時代から予備校時代までは全て暗黒時代ということになりました。

@大学時代

今までの暗黒時代が嘘のようです。物理学科というのは定員が少ないためか、他の学科に比べ、友人が出来やすい環境でした。人数が少ないのでオリエンテーションで一人づつ自己紹介をするんですが、この自己紹介でヤバい学科に入学してしまったと思いました。みんな志(目標)が高い。「ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)を読んで宇宙物理学に憧れ、将来は研究者になりたいです。」というような自己紹介をする人ばかり。筆者は漠然と物理学科に入学したのに、研究者を目指している人ばかり。なんなんだこの人達はと心ながら思ってました。筆者もつられてそのような自己紹介をしてしまいましたが・・・。しかし、付き合ってみると皆様同じことを思っていたようで、この段階殆どの人が既に挫折していました。やる気のある人たちは1割程で常に前の席で授業を受けていましたね。そして、試験が年2回あるのですが、非常に難しい単位が幾つかありました。筆者は運よくその難しい単位も上手く取得し何とかなりましたが。2年掛かった単位が1つだけあっただけですが、その難しい単位のせいで留年した人達も多くいました。しかも、就職先が決まっているのに・・・。大学入学時にスキーサークルに入りましたが、オフシーズンはトレーニングを欠かさない熱血系サークルでした。1年生の5月GWに初スキーに行き楽しかったのですが、金銭的に4年間続けることは難しいと思い脱会。そして書道サークルに入り、ここで人生初の恋人ができました。それが、今の妻ですが。また、ブラックバス釣りがブームでハマってましたね。大学時代はとにかくバイトと遊びとサークル活動と釣りとで勉強は最低限単位が取れる程度に。遊びほうけていました。しかし3年生の後半ですが研究室希望の時期と就職活動の時期となります。その当時は分からなかったのですが、この研究室選びは本当は大切なのです。将来の就職先や人生を左右しかねないものです。しかし、筆者は適当に選んでしまいました。なんだか凄そうな研究をする研究室を・・・。宇宙物理学の真相を知るための研究をしているような・・・今でも何をやっていたのか不明です。週に3~4回程研究室に顔を出し、教授に来てるぞアピール。これが大事。実は殆ど来なくて研究室の単位が取れなくて留年した人が同じ研究室にいました。この研究室でしたことはWindowsとUNIXのコンピュータで「Open Inventer」だったかな?と「Visual C++」を使って原子と原子が衝突し時の現象をコンピューターでシミュレーションするというものでした。研究室にいた大学院生よりサンプルプログラムを貰って少し加工して終了。そして、1年間来てるぞアピールだけで成績Aで研究室の単位が取れました。(ラッキーです。筆者より少し来なかった人は成績がC、そしてそれより来なかった人は留年)留年された方は父親が教授のところまで話に行き何とかならないか相談したらしいですが、どうにもならなかったようです。しかも留年後も同じ研究室。この研究室の教授は評判が余り良くなく、課題に関しても曖昧な表現で、生徒側からすると何をすれば良いのかわからないというのが実態でした。しかし、この研究室で小学生時代に憧れていたコンピューターへの思いが蘇ってきました。大学3年生の時に富士通のFM-Vシリーズのパソコン(Windows95搭載、メモリ4MB、HDD850MBだったかな?)を購入し家でもコンピューターをいじりまくりました。linuxをインストールしてみたりWindowsを再インストールしたりと。そしてインターネット時代も到来しており(若干パソコン通信の名残はあるものの)モデム(ピ~ヒャラヒャラ~って接続)を使用してネット接続開始です。この時、これからはコンピューターが中心の世の中になると確信を抱いていました。この頃、Yahooの株価が凄いことになっていたのとホリエモンが少しずつlivedoorを立ち上げた頃なのではないかと思います。小学生時代の憧れていた職業へ再度、憧れを抱くとは思いませんでした。実はこの頃は情報処理産業はバブル状態で、文系出身者まで情報処理産業へ就職するものがいる位、人手不足の時代でした。それなので就職活動で試験を受けたところは全て合格しました。勿論、一部上場企業もですが。しかし筆者は何故かその頃流行りだしていた「携帯電話」に魅力を感じて、携帯電話やカーナビのソフトウェアを開発している一次下請け会社へ入職することにしました。また、この大学時代に情報処理技術者試験2種を取得しました。

@社会人時代

社会人となって1人暮らしを始めました。自宅からは通えない場所だったので。最初の4~5か月位でしょうか。ず~っと新人研修でしたね。はっきり言って楽しかったです。その会社は同期の繋がりが非常に強い印象がありましたね。しかも某超有名ブランドの配下にいる会社でした。最初の仕事は「PHSの基地局」関連のソフトの開発をしていましたが、入職して1年半で配属先が変わりました。次の部署は新規事業(あまりにも凄すぎて言えません)でした。はっきり言って2年目の筆者にとってはとても辛い仕事でもありました。2年目の筆者が2次下請会社(2次下請と言っても1部上場ですよ)の年上の人たちを動かすのです。非常に辛く、しかも毎週月曜日に大阪へ行き、金曜日に帰ってくるといった生活。仕事をしていても成果が見えないので、どうすれば良いかわからない。そんな時に今の妻と結婚。結婚後お互いの職場の中間地点に居住したが、お互い通勤時間が片道2時間。こんな生活がスグに嫌になり筆者は妻の職場(田舎です)の近くで暮すことを覚悟し、約2年で1社目を退職しました。仕事も辛く、通勤も辛い。どうにもなりませんでしたね。案の定ですが情報処理産業は安泰な時代です。いつでも仕事につけると思っていました。また妻は地方公務員なので、筆者が仕事しなくても良いだろう(主夫になろう)位に思ってました。

田舎に引越して約半年間遊びまくりました。そのお陰で土地勘を掴みながらある程度落ち着き知り合いも出来ました。この半年間妻の扶養に入ってましたね。ま、遊びながらでもハローワークに通い、少しばかり気になる会社があったのでターゲットは絞っていました。しかし、なるべく充電期間が欲しかったので、機会を伺っていました。そして、その気になっていた会社へハローワークを通じて面接へ。その場で入職決定。(こんなんで良いのかな?)内心思ってましたが。。。2社目ではなかなか面白い開発ができました。特定分野限定のソフトウェア開発なのですが「VB」「C#」の知識の取得と、「ソフトウェア開発技術者試験」に合格しています。この会社ですが、ある意味で良い面、悪い面がありました。どこの職場でもあるとは思うんですけどね。仕事が出来る人に仕事が集まり、仕事が出来ない人は仕事しなくても良いみたいな・・・。なんか5年間いましたがバカバカしくなり、次の職場を決めて退職いたしました。

そして今の職場へ至っています。今の職場はITの保守・運用をメインで仕事をしています。開発の第一線からは退いた感じですが、少しでも自分の技術を錆びさせない為に、仕事を楽に終わらせるためのツール作りなんかはしてますね。もう10年経過しましたね今の職場は。今回のサイト作りも自分の将来への勉強と思っております。また、子供が3人で全員同じ室内スポーツをしています。(最近明るいイメージになって来たスポーツですが・・・)子供たちのスポーツ観戦が一番の楽しみですね。仕事は嫌いです。

これが今までの経歴です。長々と書きすぎましたね。

 


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